2014年7月30日水曜日

海外研究生活 現地編14 ~研究体験記・後半~

2013年8月27日に渡米して、9月2日から始まった1年間の海外研究生活。
2014年3月19日に中間プロジェクト報告会が終わるまでは、
前半 (海外研究生活 現地編8) にまとめました。

今回は、中間プロジェクト報告会が終わってから、
最終プロジェクト報告会 (2014年7月23日) までを後半編としてまとめたいと思います。


  • 黙々とワンマン研究員で実験に明け暮れる出す日々
中間プロジェクト報告会が終わったら、周囲もひと段落。
実験の見通しが立っているので、完全に周囲の干渉もなくなって自由な研究環境へ。
何か困ったことがない限りサポートは依頼しないし、サポートが必要ないなら
わざわざ離れた同僚の個室オフィスを訪ねることもしない。
結構、いや、周囲同様かなりのワンマン研究者路線をたどりました。

黙々と1週間~2週間の実験期間でデータを取り続け、
その後、1週間でデータを取りきって図表にまとめる。
実験内容と結果を報告して、次の実験方針を提案。
納得してもらって次のマシンタイムを取ってもらう。このサイクル繰り返す日々。

そんな日が3月中旬から5月中旬まで行われました。

大きな事件といえば私にとっては突如としてアナウンスが来た、レーザー装置部トップの解任劇。

上から順に私の部署までを追っていきます。
laboratory for Laser Energetics (LLE) は、本当にざっくり大きく分けて、
レーザー装置系、レーザープラズマ系、シミュレーション系に分けられます。

その装置部門のトップ (教授) が突如として解任されました。業績不振で。
別に教授職を解かれたわけではなく、兼任していた安全管理部門専任になりました。
たいしたことなさそうですが、今までトップで動かしていたレーザー装置部門に
出入り禁止となったのと同義だと考えると、事の大きさはわかります。

私も、以後、彼を見たことはありません。
そして、研究所所長のメールで 「彼がリーダーであったときより、
さらにクリエイティブな仕事をするように」 と私たちにアナウンスがありました。

アメリカの大きな研究所でも企業でも、そんな世界です。
私も身が引き締まる思いになりました…と、同時にワクワクしている自分が居ました。
超競争社会です。真面目にやることが当たり前で、その上での成果が評価される世界。
トップだろうボトムだろうが、対等に評価される世界です。

一方で、英語力もまだ堪能でないため、
この海外の環境では勝負しきれない敗北感も感じました。
もっと英語が出来れば、アピールできれば…そんな歯がゆさを感じました。


  • 国際会議で脱ワンマン研究員と外資系新人社員体験 (?)
6月にCLEOというレーザー分野では最大級の国際会議がありました。
私も口頭発表で参加する予定だったので、5月下旬から、せっせと資料準備。

この資料準備が、私のアメリカでの研究感のターニングポイントになりました。

そのポイントは、国際会議の発表資料を準備して、英語のチェックを依頼したこと。
日本での実験を発表する予定だったので、もちろん同僚の名前なんて入ってません。
だから、同僚にとっては仕事でもないので、義務でも命令でも指示でも何でもありません。

…が、手伝ってくれました。
一言一句、丁寧に英文訂正してくれて、2時間ほど内容の議論をしてくれました。

渡米してしまうと、日本との関係は、
たとえ自分が日本の所属先であっても指数関数的に希薄になります。
私は経験がないのですが、海外に限らず、国内でも他機関に移籍すると
同じことが起こるのだろうなと自戒するようになりました。

なかなか日本から英文チェックや内容議論の支援がいただきにくい状況で、
この手伝ってくれたことは本当にありがたかった。泣きそうになりました。

それまでは、ワンマンを突っ走っていたし、同僚も困ったときに
サポートしてもらう人くらいにしか考えてなかったのですが、
この一件以降は、“仲間” なんだと、溶け込めたというか一体感を感じるようになりました。

かなり内容の議論で会話したので、自分は常に心をオープン。
以降は天気のよくある世間話や、オススメの州立公園の話題など、
色々と雑談も出来るようになって行きました。
…ってか、俺がかなり心を閉ざしてただけでした (笑)


そして6月の国際会議直前、グループリーダーの教授に呼び出される。
何か悪いことしたっけ…とか小学生みたいなことを思いながら行くと、
国際会議の展示会で探している装置の商談というか情報収集をしてくるよう、ミッションが。

内容は、欲しい装置を展示会場で何社か探し出して、装置の詳細と見積もりをゲットして、
預かった教授の名刺を配りながら、担当者とのコンタクトを作ること。

実際、展示会場ではしどろもどろの英語で、何とか6社とコンタクトを作りました。
研究所に戻って、すぐに詳細の比較表を作って、担当者の名刺、パンフレットとともに報告。
“Excellent work” と言ってもらえました。よかった。

…まぁ、俺がピックアップした会社の中に、自分の卒業生が担当者で、
なおかつ同じニューヨーク州の会社があったので、そこで即決してましたが (笑)

この経験は大きかったです。具体的には分かりませんが、度胸は付きました。
変な汗を一杯かきましたが…。
あと、アジア人というだけで適当にあしらっていた担当者が、グループリーダーの教授の名刺を
出した途端に手のひらを返したように、親切な対応に走ってきたのはあきれましたが…(笑)


  • 最終プレゼン準備狂騒曲。グループリーダーの教授が居ない!
国際会議のCLEOが終わった6月中旬から7月上旬まで、再度、実験の日々。
途中でPCのマザーボードが壊れて総交換になったり、停電が起きたために空調が誤作動して
逆噴射が起こって実験室が埃まみれになったりと災難が多々ありましたが。

こんなこと、あるのか?と同僚に聞くと、“…いや、こんなの初めてだ。” と。
俺は疫病神か?と疑いました。

幸いかどうか知りませんが、土足で白衣も着ないようなレーザー実験室です。
埃対策で全装置系はカバーされていたので、拭取り掃除だけで終わりました。
酷かったのはカーペットが敷かれた一般通路の廊下で、
該当箇所のカーペットが全部張替え、そして壁も全面ペンキ塗りなおしとなってました。


さて、6月下旬に入ると月末に最終プロジェクト報告会だとグループリーダーからのお達しが。
この時点でのスケジュールは、7月第2週に最終プレゼンに向けた打ち合わせ、
第4週に本番にしようとなっていました。
そして、6月下旬から7月第2週の打ち合わせまで、リーダーの教授はバカンスに行くと。

しかし、7月第2週になってもリーダーが姿を現さない。教授室は電気が付かず締まったまま。
扉には帰ってくる日付を示した小さなホワイトが掛かったまま変化がない。

実験が少し遅れていたので、最初はラッキー!なんて思ってたのですが、
その週の水曜日にもなると、さすがに可笑しい…と思って、同僚に“どうなってるんだ?”と聞くと、
「彼は病気だ。深刻な状況で、君の資料はチェックできない。
9月の国際会議資料も無理だろう。」 と返答。…あぁ、やっぱり、俺は厄病神だ…。

そこから大変です。俺の受け入れ責任者が不在。
もちろん、私の存在は研究所内の上層部にも知られているので、
最終プレゼンは開催しなければならない。

とにかく最終プレゼンまでの1週間半、グループメンバー3人を巻き込んで狂騒曲。
ひたすらチェックと内容議論と英語校正を繰り返して、ブラッシュアップの反復。
久々に深夜までデスクワークしたり、発表練習したり。

ただ…、手伝ってくれる全員が、本当に親切でした。
自分の仕事ではないのに、英語がつたなくても聞いてくれる。本当に感謝です。


  • 最終プレゼン、そして日本の帰路へ。名残惜しさと得た持論
やってきた最終プレゼン。
中間プレゼンの会場から一回り会場は大きくなって、
今回はオメガレーザー (LLEにある世界第2位の出力を誇る超大型レーザー) の
システム部の研究者まで来るちょっとした大イベント。

発表は無事に終わりました。発表後に拍手をもらえました。
参加者から、いい発表だったと握手がやってきました。お世辞でも嬉しかった。

泣きました。発表後、同僚と記念写真を撮って自分のオフィスに戻ったら、
ぼろぼろと泣きました。 …ってBlogに書いてる、今ですら泣けてます (笑)

それだけ辛かったし、渡米直後は見通しなんてなかったし。
こんな、俺にとって平均以上のエンディングは想像できてなかった。
今までの頑張りが報われたようで、心地いい放心状態でした。

もちろん、すぐに妻には、無事にプレゼンが成功したことを連絡しました。
妻が帰りにあった時に交わした無言の笑顔のハイファイブ。それが全てです。

このBlogを書いているたった今、帰国準備に奔走中です。
次は、帰国準備の内容をまとめようと考えています。


私の考えです。

語学留学の話とか、よく耳にしたりすることがあります。私は勧めません。
語学以外の強い理由、例えば私は海外での研究業績の獲得、がある、
または、業務として会社からの辞令といった理由がない限り、海外は勧めません。

人それぞれ、性格もあるので、あくまで私の考えですが、本当に辛いです。
何度も逃げようと考えたし、妻が居なければ日本に逃げ帰っていました。

語学以外の理由が欲しいと書いたのは、語学は日本でも出来ます。

英語しかない環境に身を置きたいのなら、日本で所望の環境を作ってください。
スカイプ英会話、英会話スクール、英会話カフェ、スポーツバー、
留学生支援、インターナショナル教会、洋画DVDに英語新聞、手段はいくらでもあります。

私のような作らないタイプは、心配せずともYoutube等で海外の中でも日本語がある環境を
いとも簡単に作り出して日本語回帰します。
そして、日本人の知り合いを見つけ出して、日本人同士でホームパーティーを開きます。

海外にいっただけで英語が出来るようにはなりません。
日本で出来ないことが海外に行っただけで出来るようにはなりません。
もちろん、悟りなんて開かないし、世界観も変わりません。

そして、私は自他共に認める井の中の蛙。
高校卒業後の勤労学生時代の職場から博士号取得まで9年間ずーっと同じ研究室でした。
おかげで天の高さは知ることが出来ました。

そんな蛙が大海に飛び出したのです。もう、最初は溺れてました。

だけど…、泳げるようになるんです。何とか。すると、大海の空の高さを知るんです。
いい事かと問われれば、一長一短としか答えることは出来ません。

井の中の蛙の、「これしかない!ここしかない!」 という精神は、
凄まじい原動力の源になります。視野が狭いのだって武器です。
最善は、視野が広い中で視野を絞って打ち込むことです。
でも、この原動力のための次善策は視野を広げずに維持することだったりもします。

大海の空の高さを知ると比較が始まります。自分のこれまでの井の中の生活を検証し始めます。
今後の自分に悩みます。いろんな可能性が見えます。いろんな明るい未来が見えます。
そして、いろんな暗転していく可能性も見えます。

私は、現時点でまだ悩んでます。

1年間の海外研究生活、本当に来て良かったと思います。
この感想をいつまでも、このままで残しておくために、
今後の自分についてもっと悩もうと考えています。


最後に、研究生活・研究体験なので、研究に限った書き方をしました。
しかし、私がアメリカに来て感じた一番のメリットは人とのつながりです。


異国の地で生活するという共通点のおかげなのか、
家族ぐるみの付き合いが当たり前のアメリカの風土のおかげか分かりませんが、
本当に家族ぐるみで、たくさんの方とお会いすることが出来ました。

日本人同士の付き合いでも、日本よりいいな…って思いました。

妻と決めてます。帰国後の新居は、ホームパーティーが出来る家にしよう!と。

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