2014年3月21日金曜日

海外研究生活 現地編8 ~研究体験記 ・ 前半~

これを現地編に含めるかどうか迷いましたが、含めます。

昨日 (2014.03.19)、中間プロジェクト報告会を終えました。

渡米して7ヶ月。

半年を少し越えたところでの報告でしたが、いい区切りとなったので、
前半として、これまでの自分が体験してきた研究の流れをまとめたいと思います。

時期としては大別して5つ。

目次
順を追っていきます。


渡米1ヶ月 (2013年9月) の期間。
緊張感とやる気にみなぎってた時期です。モチベーション高かったと思う。

セーフティートレーニングというのは研究するに当たって、必要な安全教育を受けること。
具体的にはプレゼンテーションを見て、その後、クイズに答えていく。もちろん英語。
その後、アポイントを担当者に取って、そのテストの採点と面談が行われて官僚。
必要なテストの種類はグループリーダーが判断。

私の場合は、

  1. 一般基礎
  2. 化学基礎
  3. 電気基礎
  4. 化学基礎
  5. レーザー基礎
の5種類の試験を受けました。
もちろん、放射性物質を扱う場合や、超高電圧を取り扱う場合など、
特殊な場合はさらに追加でテストを受けることになります。

その他、図書館、プレゼン等の発表資料デザイン部門、所内データベース部門の
オリエンテーションを受けました。
さらにさらに、レーザーの研究所なので大学病院での眼科検査も受けなければならない。

これだけの内容加えて、銀行口座開設やソーシャルセキュリティーナンバーの取得を
同時に行っていくので1ヶ月はあっという間に過ぎていきました。
途中、1週間は国際会議に行っていましたし。

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渡米後2~3ヶ月 (2013年10月、11月) の2ヶ月間ほど。
本当に思い出したくもないし、本当に苦しかった期間。
妻が居なければ日本に逃げるように帰国していたと思います。辛かった。

その期間の最初の2週間は、無駄に焦った。
一通りすべきことが終わって、ふと気づくと、すべきことが全く無くなってしまった。
実験は何をするのかも分からないし、同じグループの研究者は相手してくれない。

ちょうど、実験設備を大幅に改装するタイミングだったのも災いして、
本当にそれどころじゃなかったのは後々分かったけど。

うちの研究室、本当に学生がいない。大学とはいえ、ほとんど公的研究機関。
もともと、博士課程に入ってから来るのが一般的な研究所だったし…。
一緒に仕事をすることになるのは40代と60代のロシア人2人だけ。

机も博士号持ちなので2人で1人部屋の個室に置かせてもらっている。
ルームメイトは別グループ且つ6時~15時勤務のママさん技術者。
ほとんど現場だし、年代も性別も違うので挨拶やバカンスの雑談程度で接点皆無。

幸いにも科研費の申請書類や、国際会議のプロシーディングなど、
日本の仕事があったので、ひたすらそれを行うと言う時期だった。

軽い実験内容の打ち合わせはあったが、グループリーダーの教授はロシア人と相談してくれ。
ロシア人は相手してくれない。ただ、ちょっとは相手してもらえるかとアイデアをまとめて
何種類か資料を送ってみたが、よく分からない難癖つけられて終わっていった。

その後の1ヶ月間は暗黒時代。
日本での仕事も完了してしまい、するべきことがなく、ただ目的も無く研究室に居るだけ。
どうしていいかも分からず、奮い立って、数回待ってくれと言われていたが
いい加減、レーザー実験を見学させろとロシア人に直談判。

見学させてもらったら見学させてもらったで、本当に実験系の大幅改装の途中のため、
日本では30分で完了するような実験内容が、こちらでは3時間かかる。
ちょっと30分ほど作業しただけで、ロシア人が一言 「さぁ、コーヒーブレークにしようか。」

本気で日本に帰りたかった。なんのために来たのだろうとおもった。
日本に居た方がよほど業績は出せるし、アメリカにいるメリットが分からなくなった。
アメリカの最先端の研究所、きっと華々しくて装置が揃っていて…なんて幻想がぶっ壊れた。

しかも、私生活で多重請求の問題も発生していてアメリカの悪い面が一気に噴出。
気分転換にと、妻と若い知人夫婦 (旦那さんがアメリカ人) で飲み屋数件を案内してもらったが、
すべてが苦手な騒がしいクラブのような場所で、日本の居酒屋で気心知れた友人知人との
日本語での飲み会が急に思い出されて、恋しくなって、完全にホームシック。

もう妻の前とか関係なく泣きじゃくりました。本気で辛かった。
どうすればいいかも分からないのが辛く、自分の語学力の無さにも打ちのめされてた時期。

少し風向きが変わったのが、この期間最後の2週間。11月の後半。
グループリーダーの教授がしきりに俺に 「…ぁいと ぺーぱー」 と言い出した。
俺は、“Write paper” に聞こえて、論文を書くような仕事をしてくれよ!と受け取っていた。
…が、実際は “White paper” だったようで、実験計画書を書けという意味だったよう。

俺のモチベーションは最低だったし、もう研究所内でも自分の机に
引きこもっていたようなものだから、英語に馴染んだ耳すらどこかに行ったような状態。

さすがに俺の様子が可笑しいと気づいたのか、グループリーダーの教授が一緒に
動く話になっていたロシア人を呼び出したようで、2人の怒鳴り合うような声が
3部屋先の教授室から聞こえたのもその時期。

その翌日だろうか。ロシア人がやってきてWhite paperは私が準備してあげるからと言ってきた。
俺は素直に頷いた。それで一緒にやるロシア人の意向がつかめたら…と思ったし、
当面、その内容に集中できると期待したから。

だけど、現実は甘くは無くて、ロシア人からグループリーダーに送られた計画書は、
Letterサイズ用紙で半ページの質素な分からないもの。
実験の内容も、渡米直後に簡単な打ち合わせがあった際、
課題を提案された時に “一応、こんな手法もありますよね” っていった手法。

すぐに教授室からグループリーダーとロシア人の怒鳴り合いが聞こえてきた。

さて、その翌日くらいだろうか、ロシア人が再度やってきて、
「一体どんな実験がしたい?話し合おう。White paperを一緒に作ろう」 と言ってきた。
俺の返した提案は、「まず、実験のおおまかな方向性について、ここで決定させて欲しい。
そしてWhite paperは自分で作る。だからWhite paperの英語のチェックをして欲しい。」 と。

今までロシア人に提案してみたけど無視された内容を全部詰め込みなおしたWhite paper、
約6ページ分ぐらいを作成。背景、目的、実験方法、見通し、月次計画を全て詰め込んだ。
ロシア人が英文添削をしてくれて、メールでグループリーダーに送られた。

翌日、グループリーダーが添削し、修正箇所が書き込まれた
私のWhite paperが私のデスクに置かれていた。

冒頭に一言 “Great work!”。

実験の方向性がようやく決まった。暗黒時代が終わりそうな気がした。
もう、自分の机で暗い顔してパズドラなんかしなくてもいいんだと思った。

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渡米後4ヶ月、5ヶ月目の期間 (2013年12月~2014年1月)。

実験の方向性は決まった。ただ、相変わらずロシア人は手助けしてくれるのか、
めんどくさがっているのか、掴みきれずにいた。

実験室に入室するために必要なドアロックのパスワードを教えてくれて、
“ここのスペースは自由に使っていいから” と与えられた実験スペースは、
100cm×40cm程度のブレッドボードの一部分。

じゃあ、この装置は使っていいよと渡されたのは、100MHzの安物の古いオシロスコープと、
俺と同い年 (1986年製) のアナログロックインアンプ。
そして500mWのおもちゃのような小型のCW Nd:YAGレーザー。
あとはこの棚の物品は好きなように使っていいからと、教えてもらった光学部品保管庫。

でも、実験できるだけで嬉しかった。
数日前のあの生活から抜け出せるかも知れないと思えるだけで救われる気がしていた。

そこからは必死に原理実験。ここで成果をあげれば、この実験系をそのまま
メインの装置に移設できる期待で頑張れた。
さすがにアナログロックインアンプは古すぎてノイズだらけで大変だったので、
文句を言って同じく1986年製のデジタルロックインアンプになった。

レンズもミラーも光学素子はまともに揃っていない。
サイズもバラバラ、メーカーもバラバラ、インチとメートル混合、
ミラーホルダーにレンズホルダーつけるしかないような状態。

そんなので安定するはずもなく、安定させた状態を維持した光路調整のノウハウが
必須な系になっていく。ロシア人がやってきて、ちょっと見せてみろと
光路を触っては崩して、「こんなのじゃダメだよ」 と言って去っていく。

お前はシムシティの恐竜か。

それでも、原理実証できた。
レーザーをつければ、こんな信号が出る。消せば信号を消える。
光路をずらしても信号が消える。実験試料を変化させれば信号も、それに併せて変化する。

「分かった。メインのシステムに移設して実験しよう。使い方、教えてあげるよ」

半年弱でようやくメインの実験系に辿り着こうとしていた。



渡米して半年たとうとした頃。2014年2月。

「こっちのオシロのほうが、より安定に信号が取れるだろう」

この一言と共に持ってこられたオシロスコープには驚かされた。
今までは、100MHz・2CHのオシロスコープ、10万円ほどで購入できるだろうか。
持ってこられたオシロスコープは、12GHz・4CHのオシロスコープ。
1200万円 (12ミリオンドル) だそう。

先の基礎実験で実験が出来るやつと信頼してもらえたらしい。
使える機材の質や権限がドンドン広がっていった。

時には、「このレンズをここに置くけど、問題はないか?」 と聞いたにもかかわらず、
「このレンズが私の実験で邪魔だ。これは仕事なんだ。」 と理不尽に言われたこともあった。

さらに私の実験中に、あれやこれや口出ししてくるもんだから、もう限界が来て、
「I am sorry, but.. it's my work !」 と、本気で言い返してしまったこともある。
俺はこういう予定で、こう実験する、結果は報告するし、
困ったことがあればすぐに連絡すると主張した。

言い過ぎたよな…なんて思ってると、帰ってきた言葉は
「分かった。英語うまくなったじゃないか」 とにこやかに帰っていった。

そこから、お互いにいい距離感で連携が取れるようになった。
今は、そのロシア人のサポートに本当に感謝している。
私の実験は全て信頼した上で任せてくれ、私の乏しい語学力を完全にカバーしてくれている。

その頃だろうか、「Dr」 をつけてLast nameで呼ぶのはやめろと注意されたのは。
敬称をつけずにFirst nameで呼んでくれ、私は君の同僚だ、と。
さすがに呆気に取られた。自分の父親と同年代の人を軽々しく呼び捨てにするのは気が引けた。
…が、リクエストされたものは仕方が無い。それ以降、軽々しく呼び捨てで呼んでいる (笑)
アメリカの文化は本当に不思議なもの。

そうして、順調に結果が出るようになった。
実験室に最後まで実験をするときもあって、装置を立ち下げ、電気を消して退室するとき、
ようやく充実感を感じた。

「俺、実験してる。結果でてる。業績作れそう!」って、嬉しくなってた。

妻にも言われた。
「らしさが戻ったね」って。泣きそうになった。



2014年3月。
中間プロジェクトの日程が2月のうちに決まっていた。3月19日。

実験結果が出て結果を報告して、この結果なら大丈夫と太鼓判を押してもらっていた。
そして、「英語は気にするな」 といつものように声を掛けていてもらった。

資料作りは2週間前から。ギリギリまで実験しながらプレゼンを作った。

プレゼンのドラフト (原型) が出来てからは、グループリーダーとロシア人の
3人で打ち合わせを繰り返すこと3回ほど。

プレゼンでタイトルスライド直後に結論を持ってくるアメリカ式に直される。

感覚的に分かってたつもりだったから、タイトル→アウトライン→背景→結論→…の
流れにして作って言ったけど、結論はアウトラインより前!と一蹴された。
後に日本の民間企業で働いている2名からも、日本の社内報告でも同じだよとコメントを貰った。
ちょっと日本の学生社会の方式に染まりすぎたかなと、視野が狭かったことを反省。

あとは内容をグループリーダーとロシア人が徹底的に理解してくれた。
俺の考えている考察や、今後の計画についても、乏しい英語で必死に伝えた。

悔しくて悔しくて、突貫工事でなんとかなるものではないけど、
プレゼン発表の台本は作って、それだけでも、まともに喋れるように練習した。

発表当日。

さすがに緊張した。ワンチャンスの評価で、その先の自分の扱いが変わってしまうのを
嫌と言うほど味わってきたので、これを逃せばアメリカでの研究も苦しくなると思っていた。

プレゼン、練習していたのである程度、落ち着いてできた。
堂々と、大きな声で、英語の発音とリズムに気をつけて…。

発表練習はしていなかった。資料を読んでもらえれば分かるようにという形を選んだのだろう。
喋りだしたとき、グループリーダーとロシア人が “ちゃんと喋ってる” と、
意表を突かれたような顔をしたのは見逃さなかった。

こっちは寝不足になってでもやりこんで来たっちゅーねん。

それでも、悔しいが質疑応答になれば苦しいのは知ってくれている。
質問が出るとロシア人が代弁してくれる。俺の考え通りに。
グループリーダーもあたかも初耳だったかのような質問をして盛り上げてくれる。

結果は成功に分類できるものだと思う。
他グループから、実験試料の提供も来ることになり協力を取り付けることに成功した。
違うシステムに組み込んでみるかの検討も話に上がって、議論も白熱した。

終了後、グループリーダー、ロシア人にそれぞれ、“Good presentation” と声を掛けてもらった。
肩の荷が降りて、語学力は悔しさがあるけど、それに余りある達成感。

すごいほっとしてテンションが上がった。
妻に会ったとき報告した瞬間に涙ぐみそうになったのを、いじられる羽目に。

この研究は今年9月の国際会議で発表することが決定しました。
プロシーディングも出版されるし、アメリカでの業績は残せます。
ここまできたら、論文発表まで持っていってやるつもりです。

8月の帰国後に書く、後半では、もっと充実感に溢れたような
文章が書けるように頑張ります。

以上、長くなったけど、体験記でした。

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