2014年3月19日水曜日

STAP騒動から思うこと

アメリカで研究生活をしていて、あまり現地では日本で騒動になっている、
STAP細胞の論文については聞こえてこない。
もちろん分野が違うからということもある。

アメリカのニュースはもっぱら、マレーシアの航空機失踪事件である。
やっぱりテロ、しかも航空機絡みになるとアメリカの関心が頂点になっているよう。

さて、いくら専門や分野が違うとはいえ、この問題、
同じ博士号を持つ身として思うことは山ほどある。

かなり言葉を選びながら、整理しながら思うことを書きたい。
それでも整理しきれないと思うけど…。


  • 博士論文や実験と指導教官の関わり方
大学の先生は忙しい。本当に忙しい。
アメリカで研究生活して思うのが、日本の大学の先生は本当に雑務が多すぎる。
研究成果や学生の指導、研究費獲得など教員としての評価項目が分散したり、
極集中したりと、利点とも欠点とも取れる要因があるので、どちらが良いかは分からない。

そんな、雑務にも追われる大学の先生が、全学生を手取り足取り指導するのは困難だと思う。
それでも、議論はする。週に1回でも、月に1回でも、半年周期の学会前でも。

どうやって、このデータを取得したのか、精度 (誤差) はどの程度なのか、
もちろん実際の装置写真や測定データ (生データ)の確認、現場立会いなどで、
少なくとも信頼できる測定データが取得できているかは最低限確認する。

その積み重ねで出来る博士論文なら、盗用など起こりようが無い。
学会発表などを繰り返せば、見慣れた図表というものは嫌を無く出てくるので、
パッと見ただけで分かる。
写真だって、その装置が撮影するものだからフレームだの表示だのから、
自分たちの装置のものかどうかくらい見当が付くはず。

国内の所属研究室で専念した場合は大丈夫。
(指導教官自身が捏造思考なら元も子もないけど)

さて、今回の騒動で取りざたされた博士論文。

内容は留学中で得た結果を主として完成したとしたら、
留学先の先生と議論済みです!といわれ、留学先の教員からも大丈夫だと
言われてしまえば、追認はどうするのだろうか。

ある程度無難に受け答えされてしまうと、間違いだ!とか、盗用だ!とはいえない。
端から、捏造や盗用を疑って確認作業をするなんて…、個人的に寂しい気持ちになる。

そうなると、信頼が置けて、密に連携が取れて、自分の専門分野を取り扱っている
受入れ教員が居る海外の研究室にしか学生が派遣できなくなる。

本来そうあるべきだと思う一方、異分野連携などによる新しい研究には、
博士課程であろうと学生を使うなということになってしまうのだろうか。
これはこれで問題なんだと思うけど…。

性善説に立ち返ろうよ…と、思ってしまう。

  • 博士論文の作成、特に背景や参考文献
博士論文のコピペが問題になってますよね。
私の立場は、ほんの一部だけ容認派。

研究の背景を述べて問題点を明らかにし、自分の研究の意義を明確にして、
その研究手法について原理説明した上で、実際の自身が行った研究について述べていく。

誰も背景をパクれとは言わないが、似たようなものになるのは仕方が無い。
さらに、世の中にはレビュー論文という、著名な先生が当該研究分野の最新の現状を
まとめてくれている。

駆け出し研究者になろうとしている学生が、どれだけ頑張っても、最先端の先生が
執筆した文章に勝てるはずが無い。従って、参考にせざるを得ない。

しかしながら、自分の腕で身を立てていく研究者の道を選ぶものなら、
そのレビュー論文ではフォローし切れていない問題点や情報を補足して、
より洗練した自分の研究の必要性が明確になるような文章に持って行こうとする
気概を持ち合わせておくべきだと思う。

だから、コピペは有り得ない。
程度の問題は度外視して引用するのはOKだし、類似してしまうのも仕方がないと思う。

参考文献についても同様。

1つの研究対象を遡って行けば、必ず1つの事象を発見、
もしくは理論を提唱した論文にたどり着く。
そこから派生した論文だって、ベースになる有名な論文は限られている。

だからこそ、研究者のステータスとして論文被引用数 (どれだけ参考文献として
用いられているか) が注目されている。

だからってコピペになっていいはずはない。
だが、同じような論文が並ぶのは仕方が無い。

結局、性善説に立ち返ろうよ…と、思ってしまう。


  • AO入試、推薦入試そして外部大学からの入学
これは私のコンプレックスです。
騒動の渦中にある人物がAO入試での入学だったために出てきた問題ですね。

私は推薦入試で、学部とは違う大学に大学院から入学しました。
学部も同じ大学である内部生とは違い、外部生のくくりです。

そして、AO入試が一芸入試と呼ばれたりするように、学力をあまり重視しない。
推薦入試も同様で、大学での成績に重点に置かれて評価される。
私の場合は、そこにTOEICスコアも必要でした。(もちろん真剣に勉強しました。)

心苦しく、コンプレックスになる理由はひとつで、
私は学力勝負の一般入試では、恐らく進学した大学院には入れなかったでしょう。

無名私立工業大学の化学科の夜間コースの学部生が、
旧帝国大学の電気科の大学院試験を内部生らを学力で差し押さえて
通過するのは過酷極まりない。

私が勝ったのは、学部時代に学んだ化学の知識と、勤労学生だったので
昼間の仕事で培った実験装置を使いこなす技量。

周囲より学力で劣ってるのは一目瞭然だったので必死でした。
ただ、同級生の誰よりも研究 (実験) を進めるつもりでやってました。
コンプレックスですが、原動力にできていたのかなと、今となっては思います。
そして、博士号を取得して、海外の研究機関で研究するまでになりました。

私は自分が利用したこともあって、学力を重視しない試験があってもいいと思ってます。
「楽して入学する制度」 と受け取られるのが辛いです。
「学力を度外視してでも入学させるに値する受験生を入学させる制度」 であって欲しい。
こう書いてしまった以上、自分も値する受験生でないといけない訳ですが。

学力があることは、こつこつ勉強する習慣が付いている、辛いことから逃げないという
証明に繋がっていると思います。もちろん、その後の研究能力にも。

推薦入試で入学した私もTOEICの点数が必要でした。
TOEICの点数が高くてもペラペラ喋れる訳でもないし、完璧な英論がかける訳でもない。
ある先生は、このTOEICの点数で勉強する習慣や努力する姿勢を測っていると仰ってました。
それに、専門は問わないし、少なくとも英語の下地を持っている証明には変わりは無いと。

ちなみにアメリカでは勉強だけでいても一流大学に入れないんですよね。
超秀才のアメフト部キャプテンとか、超秀才のボランティア団体代表だったりとか。
色々な個性が集まることで切磋琢磨していくと聞きました。
だから超秀才だけだと、ある程度で制限がかかる。
(それでも、それだけの秀才ならどこかの一流大学に引っかかるという発想のようです。)
そういう点でいうと、アメリカはAO入試や推薦入試の要素が多いです。

結局、性善説に立ち返ろうよ…と、思ってしまう。


  • 日本は博士号を安売りすると言われること
この背景は、国策として動いた背景もありますが、研究室単位で考えたい。

目先のことを言ってしまえば、修士だけではなく博士に進学してくれれば、
修士を何人も抱えるよりも多い研究室運営予算が配分されたり、
後輩の指導や研究室としての成果を挙げてくれる人材になりえる。

でもそれだけではなくて、この世界に飛び込むのは好きこそ物の上手なれで、
研究好きじゃないとやっていけない世界。
現に私は、研究についてあーだこーだいいながら飲むのが大好き (笑)

後進の学生にも同じ研究の楽しさや奥深さを知ってほしいし共有したい。
純粋にその気持ちがあります。

指導教官だって博士号を取得するまで面倒をみる責任は発生しますし、
自身の評価にも繋がってきます。修士号とは比較にならないほど、
博士号取得は大変 (なはず) ですし。

私が卒業した博士課程では学術論文3本を執筆しなければ、
博士号が取得できないというルールがありました。
大学内部だけじゃなくて、第三者からの評価によって掲載可否が決定される
学術誌への掲載が条件ですから、学生そのものの努力も相当なものです。

私は、安売りしてもらったとは思えないです。
かなりの値下げ交渉はしたかもしれませんが (冗談です ・ 笑)。
ただ、ゴーストライターや、学術誌のレベルを言い出してしまえばそれまでです…。

きっと、もっと楽して博士号を取得できた人も、私よりもっともっと努力されて
博士号を取得した人も居るのだと思います。

結局、性善説に立ち返ろうよ…と、思ってしまう。


  • 競争社会としての研究業
これは、大別して2つの競争があると思っています。

1つは研究そのものの競争。

どこよりも早く成果を上げなければならないと言う競争ですね。
私の場合はマイナーな研究分野、しかもその中でもマイナーな路線なので、
競争相手が少なくとてもありがたい立ち位置です。(それでも一定の需要はありますし。)

ですので、この類の競争はよくわかりません。
華々しい競争社会の研究と、マイナーだけどオンリーワンで居れる研究。
どちらがいいか分かりませんが、私は後者であったことを嬉しく思っています。

もちろん、マイナーな分、競争資金での予算獲得には苦労していくでしょう。
でも、この方面の研究に導いてくれた指導教官や周囲の方々には感謝しています。

もう1つの競争は研究者自身としての競争。

ポスドク問題が出るくらい、本当にポストが限られています。
しかも狭い分野だと、募集の母数も限られるため、そこに殺到することになる。

大学の研究職で任期制でない (テニュア) 職に就くのは過酷です。
その過酷な真っ只中に居るのが私ですが…。

私自身、すごい焦燥感や危機感は持っています。
論文等で業績上げなきゃとか、この海外研究生活を次につなげなきゃとか。

…だからって、論文を捏造する気には到底なれませんが。

自分の生活は大切です。
以前の記事にも書いたけど、妻の人生も背負った以上、自分だけの問題ではありません。
…が、それ以前に研究が好きな研究者です。

結局、性善説に立ち返ろうよ…と、思ってしまう。



  • 結論?

今回の騒動で何が一番悲しいかって、性善説が通用しないことが、
こんなに大騒動として取り上げられたこと。

締め付けが厳しくなって、真面目にやってる研究者に影響が出るのは
勘弁してほしい!と思う節もあるのだけれど、
それ以前に、お互いを疑いあうような風潮は嫌だ。

あいつ、あんな成果上げてて、あの論文誌に論文載ったん!?…悔しい。負けてられない。

とか、

やっぱ、あの研究上手くいかんかったんや、やっぱりなー。だから言ったやん。

とか、

純粋にそんな感じで楽しめたらいいやん。

もちろん、大学での、特に国公立大学での研究は税金を使う側でもある訳だから、
そこを忘れちゃいけない。
社会還元と言われるし、それを見越した研究計画が求められている。

だから自分の興味のある研究をしてればいいという訳でもないし、
時にはやりたくない研究だってやらなきゃいけないこともあると思う。

それでも研究は研究。研究することには変わりないんだから、楽しめなきゃ。
あの研究、おもんないわー。なんで俺がせなアカンねん!なんて言いながら
笑ってお酒が飲めたらいいじゃないか。

きれいごと?性善説?
それでいいじゃない。
一度きりの人生、辛くても悲しくても、それを乗り越えて楽しいことに
向かって頑張ればいいじゃない。

今回の騒動で何が一番悲しいかって、性善説が通用しないことが、
こんなに大騒動として取り上げられたこと。

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